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私情、千原兄弟がトップの頃の心斎橋筋2丁目劇場の思い出 2017.Ver Part.11

私情、千原兄弟がトップの頃の心斎橋筋2丁目劇場の思い出 Part.11(2008年7月2日)

今回は当時の関西と東京のお笑いの状況のことを、頼りないことこのうえないのですが、私の記憶をたどりながら、書きたいと思います。

吉本の若手の実験劇場(後期のころは、「実験」とは名ばかりの保守的な感じだった、少なくとも私はそう思っていました)、大阪・心斎橋筋2丁目劇場千原兄弟がトップだったころ、関東では「ボキャブラブーム」だったと思います。
私個人としては、私の「心のお笑いの師匠(勝手に言っていますが)」、浅草キッドボキャブラに否定的で、出演もしていなかったので、若手芸人を見るためには見ていましたが、さして、好意的に受け入れてはいませんでした。(確か、当時「バカルディ」、現在の「さまぁ~ず」も出ていなかったと思います)
当時はどんな若手芸人がいるかをチェックするために見ていました。
のちに、松尾スズキさんの編集の「hon-nin vol.01」の中での松尾スズキさんと爆笑問題の太田さんとの対談の中で、
ボキャブラは”お笑い界の中の事務所の枠”を壊した番組」
と話していました。
「お笑い界の中の事務所の枠」を壊した番組であることは初めて知りました。
当時の私はそんなことは知らずに見ていました。
この番組は意外にも「お笑い界の歴史を動かした番組」だったんですね。
単なる「ダジャレの番組」だと思っていた私は、浅はかでした。
ネプチューンの原田さんも、
「あの番組(ボキャブラ)のネタを作るのはたいへんだったんだぞ!!」
といっているところを見ましたし。
また、浅草キッドはプロの選択として、「自分のキャラクター」を考えて、出なかったのだと思いますし。
ボキャブラ」もそれなりにいい影響を与えた番組だったんだなあ、と、今は思います。

逆に、当時の2丁目劇場は徹底的な「秘密主義」という感じでした。
私はケーブルテレビと2丁目劇場のファンクラブで情報を得ていましたので、2丁目劇場の芸人のことを知ることが出来ましたが、当時はネットも盛んな時代ではないので、地上波の全国テレビに出ない限り、全国的に知られることがない時代でした。
また、私の住んでいる広島では、関西のテレビ局制作のテレビ番組の放送が急激に減っていたときで、関西の芸能界のことを知ることはほとんど出来ませんでした。
2丁目劇場は、関西(もしかしたら、四国は見れたのかな、この辺のことはわからないのですが)だけの文化でした。
なので、私の周りでは当時の2丁目劇場の芸人を知っている人はいませんでした。

私は当時、そんな2丁目劇場に閉塞感を感じていました。
当時の劇場の保守的な姿勢、そのために生じる、上位陣のはけの悪さ、面白いのに下にいる芸人たちが多くいて、上がれない状態になり、解散していくということが起きていました。
その状況をチャイルドマシーン(大阪NSC15期生)が東京に行くことによって、一時期は打破したのです。
それに乗って、東京に行った芸人もいました。
ですが、行った先の東京吉本では当時、劇場閉鎖が相次ぐという、悪循環に陥ってしまう、良くない状況でした。

やっと、上位にいた、千原兄弟ジャリズムが東京へ行くことになりました。
私は「1年遅いなあ」と思っていました。
でも、もうひとつの思いとして、
「今はいつ出ても、難しいだろうなあ」
とも思っていました。
私は当時の知りうる限りの資料(雑誌や手紙のやり取りなど)で関東のお笑いの状況も見ていました。
私はもともと、関西が好き、関東が好き、ということはなく、どちらのお笑いも好きで、どちらも見ていました。
なので、私なりにですが、関東のお笑いの状況のことも知っていました。

ネタで勝負するタイプの芸人である千原やジャリには向かない時代でした。
関東はネタ番組がほとんどなく、千原やジャリが行っても、活躍は無理だろうと思っていました。
千原やジャリだけでなく、人力舎アンジャッシュも苦戦していた時代ですから。
私は千原が好きなので、「(千原に)お笑い界に風穴を開けてほしい」などと思っていました(若かったので、当時の発想です)。
ただ、冷静に考えると「無理だろうなあ」と思っていました。
以前にも書きましたが、千原はダウンタウンとキャラがかぶる部分がありました。
同じキャラクターは2つといらない、となって、後発のほうが淘汰される、という形ですね。
それと、ジャリズムも関西の人が思うほど、関東の人に受けるとは思っていませんでした。
私がジャリズムの苦手にしている、ということは前にも書きましたが、この意見の場合は冷静にそう感じていました。

私は2丁目劇場の芸人たちに対して、割と熱狂的になっていました。
当時は日本全国を通して、一番面白い芸人が集まっているのは2丁目劇場だと思っていました。
そう熱狂する反面、私は冷静に分析をしていました。
私の分析ですので、根拠も何もなく、ただ単に、そう思っていただけですが、私は2丁目劇場に出ている芸人さんたち(ちなみにこの「2丁目劇場に出ている芸人」という定義は大阪NSCでいうと12期くらい以前の芸人さんたちに対してです)は東京で売れる芸人は一組も出ないのではないか、とも思っていました。
まあ、でも、そこまで大げさではなくても、よくても、3~4組くらいかな、と思っていました。
売れる、という基準は東京での定着具合ですね。
東京がえらい、というわけではなく、テレビ業界上、東京中心なためです。
13期以降は2丁目劇場では恵まれた位置にはいなかったので、違う展開のほうになるのではないか、と思ったので、分析していません。
当時、強いて言えば、東京で売れるのは、2丁拳銃ではないか、と思っていました。
理由は彼らの容姿と芸風でした。
また、これは私の意見ではありませんが、「そうなるかもね」と思ったことでは2丁目劇場出身で一番売れるの大穴は中川家ではないか、といわれていました。
理由はとにかく、芸人として、芸や人間関係のやりくりに関しても、器用そうだ、という意見からです。

これは別に分析を当てようとは思っていないので、当たり、はずれの話ではありませんが、当時の分析と現在の結果を比べてみると、厳しく分析した以上に、現実は厳しかったですね。
2丁拳銃は思ったほど売れず、中川家M-1で優勝して、波に乗れるかと思ったら、礼二さんの”とある出来事”でイメージが悪くなり、頭打ちになってしまったりで、思ったようには売れていないようです。
クレバーだったのは大阪での活動を選ばず、はなから東京での活動を選んだココリコですね。早く東京へ行って、早くから売れていました。今も活躍しています。
ただ、中川家はのちに巻き返し、今は東京でも活躍しています。

状況や運によりけりなので、なんともいえませんが、当時は大阪の2丁目劇場の関西圏以外に対しての閉鎖的売り出し方では、東京での活躍を目指しているタイプの芸人や、いずれは東京で活躍して欲しいと会社側が思っているであろう思惑から見ても、時代や傾向に逆行していたのではないか、と思います。
さんまさんやダウンタウンが売れた方法である「関西で売れてから東京へ」というやり方がちょうど、合わなくなった時代がおとずれていたのかもしれません。
だから、当時は、いずれ東京で売れたいと思っているタイプの芸人は最初から東京に行ったほうがよかった、ということになりますね。
ただ、当時はその東京も大阪よりは条件がいいにしても、成功する可能性は低かったので、いずれも茨の道だったと思います。

余談ですが、千原は当時の言動を見ると、そこまで東京進出に執着はしていなかったように思いました。
大阪で活動して、大阪から全国に発信して、全国的に広がることが理想だ、ということを言っていたように記憶します。
東京が良い悪いではなく、テレビ的に売れることが全国で売れることと考えた場合はどうしても東京へ行ったほうがいい、というのも会社の思惑として、また、本人の実感としてあったと思うので、東京へ行ったのだと思います。
ただ、本人たちは今は、「早めに東京に出ればよかった」という感じのことを言っていた、という話を聞きます。
周りの思惑や態度、東京進出前と後の状況の違いとかいろいろあったためだと思います。
私は、あまり、がめつくない印象が千原にはあり、その感じが千原の魅力ではあったのですが、そうも言ってられない現状もあると思います。

長くなってしまいましたが、当時は東京はあまりいい状況ではなかったです。
ネタ番組を見るには関西の番組か、衛星やケーブルテレビで番組ぐらいしかなかった時代ですね。